~かけがえのない歯を大切にする治療、価値ある治療結果、そしてつらくない治療をめざしています~

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日々雑感

権化

ホームページの経歴のところに
記載させていただいていますが

もう30年以上前の話ですが
私は日本大学の歯学部を卒業して
慶応大学の附属病院に就職しました。

診療室には慶応を出る時にもらった
旗をかけているので

日大卒の社長さんとかに
「なんだ先生は日大じゃないんかい!」
とか言われるので
説明するのですが

逆に
「先生も慶応なんですね!」と言われてしまうと
いや、卒業したわけではないんだけど、みたいな

ちょっと複雑で

ちなみに
日大卒の社長さんなどでよくある気質のことを
「日大型(にちだいがた)」と言います。
(親分肌で情に厚く面倒見がいい)

そして慶応の入局試験の後
面接があり
「君は薬理が苦手だね」と言われるも
なんとか合格し

入局後は歯科部門と口腔外科部門を
半年ずつぐるぐるローテーションしつつ

麻酔科にも半年間
放り込まれて

お医者さんの中でのカンファレンスとか
きつかった

業務にも慣れたある日

その日の病棟の仕事をやって
深夜の2時ごろ非常灯だけの、
ほぼ真っ暗な病院内を延々
一人歩いてロッカーへ

そういう時は怖いかと言うと
そうでもなくて

一般的に病院は人が亡くなるところ、というイメージですが

じつはそのイメージとは逆に
産科とかもあって
この世の光が生まれてくる場所でもあるし

夜も眠らず患者さんの命を救おうとする
医療従事者達のパワーがみなぎっている所なので

一人で暗闇でも
そんなに怖いとは感じなかったです。

癌の末期の患者さんとかもいて
ある夏の日、病室で夕方の処置をしていると
網戸の窓の
神宮球場のほうから大歓声が聞こえてきて

「あれは何ですかな」とおっしゃるので
「サッカーだと思います」というと
「ほう、サッカーですか」と

中庭があって向かいに病棟があったのですが

その病棟の屋上にお坊さんが座っている
後姿が見えると

それはあるかもしれないなと思いました。

たくさんの人間の生死があり
それを支える医療従事者達の莫大なパワーもあり
病院の頂点でそれが権化と化していても
おかしくはないなと
思ったのでした。








 
2025年03月27日 18:40

能登

先月バイクでSSTRという
ツーリングラリーというものに
参加しました。

夜明けの太陽を太平洋側で見て
その日の日没までに
日本海側にある
石川県の千里浜のゴールに到達して
夕日を見るというやつで

夜明け前に東名高速道を飛ばして
湘南二宮インターに行き
朝日が昇るのを見てスタート、
各地でポイントを取りながら

富士山の横を通って
中央高速で松本まで行って
上高地の横を通って
飛騨高山を経由
東海北陸自動車道から
白川郷
北陸自動車道
内灘町から
のと里山街道で
千里浜海岸へ
夕日の海岸を走って、ゴールという

ご飯や水分補給は
バイクにまたがったままで

合計走行距離は
約500km、
なんとかクリアしました。

天気も良く
ゴールでへとへとになるかと思っていましたが
そうでもありませんでした。

次の日は金沢市から
高岡、氷見
七尾の観音島
能登島

ラリーの主催者から
行くのは能登豪雨の影響の比較的小さかった
穴水までにしてくれとの事でしたので
穴水まで

能登島のあたりまで行くと
能登半島地震の影響がまだまだ
色濃く残っていて

倒れた電柱
つぶれた車や家

島内のお店はほとんどやっていなくて
地元の人に聞くと
道の駅の駐車場は爆撃を受けたようになったと

穴水市は
地面が波打つようになってしまっていて
鉄筋コンクリートの建物が
土地に沈むように傾斜していて

頑張って復興を目指している
人たちもいて

正直な感想を言うのは
不謹慎かもしれないのですが

正直ここは
人が住み続けられる場所なのか
復興してもまた地震が来たら
地面は波打ち
ビルは沈み

そうなってしまわないのだろうか
と思ってしまいました。

帰りの金沢市に向かう高速道路も
半分は崖に落ちていたり
割れて1メートル近い段差ができていたり
10km、20km近く
そういう状態がずーっと続いていて

これは大変な土地だぞという
イメージを持ちました。


そして金沢からの帰路は
雨でした。

雨だ、参ったなと言いながら
実はテンションが上がっているという
ホントしょうがない
なんか子供みたいですが

ずぶぬれになりながら
高速を飛ばして
無事に帰ってきました。


 
2024年11月28日 18:38

人(開業物語その4)

若い歯科医師が開業して
一番苦労する問題が
人、の問題と
よく言われます。

求人とか、スタッフとの関係とか

若いうちは自信過剰になっていることが多く
開業して経験不足の自分の実力を知り
患者に選ばれた者か、資金力のある者だけが生き残る
開業医の世界の厳しさを知り

いい医療を追求したい理想がある一方で
開業後の返済、家賃、人件費などの支払いに追われ
さらに家族の生活費とかで悩んだりして

さらに若い歯科医が思う「いい医療」が
patient oriented(患者中心、患者志向)でなくて
患者さんがついて来てくれなかったりして

そういう中で
時にはイライラしたり
スタッフのミスにきつく当たってしまったり
逆に仲良くし過ぎて収集がつかなくなったり
若さゆえの事象が
スタッフとの軋轢を生んで

意外に良く聞くのが
スタッフが一斉に退職してしまうという現象
実は多くの開業歯科医が
これを経験しています。

私の友人が若い開業医によく言っていたのは
誰でも経験するんだから
早いほうがいい、とか

私の場合は開業直前でした。

私は外部から、とある医療法人の
この広尾分院に分院長として入り

この広尾分院が
医療法人本体から切り離されることは
元からいるスタッフたちは知っているようでした。

私も若くてとがっていて
理想を語るわりには経験不足で実力が伴わず
法人から切り離されることがわかっているスタッフたちと関係で
はじめは良かったのですが、次第にいろいろなことでもめて
だいぶ嫌な思いもしましたし
私もさせたのだと思います。

私の開業が迫ってきた3-4か月前でしょうか
ミーティングの場で
私はスタッフたちに話しかけました。

「これからのことについて相談したいと思います」

するとスタッフの中で中心的存在だった一人がきっぱり言いました。

「私たちは先生についていくつもりはありません。」

驚きましたが
うすうす思っていたことでもあり

私が
「そうか。」
「でもこの引継ぎのゴタゴタで
患者さんにだけは、迷惑をかけないようにしよう」
と言うと

スタッフが皆コクリ、とうなずきました。

私はそれを見て
「いい人たちなんだよな」と
思ったのでした。


若くして開業した歯科医の多くは
結局一人ぼっちになってしまうわけですが

一人取り残された診療室で、
一人きりになっても全部やって見せる
という覚悟を決めて初めて
一つ目のハードルを越えるのではないかと
思っています。







 
2024年09月02日 19:26

小さい頃は
夏休みや、冬休みなど
長期の休みの度に
親の実家のある鳥取県の
とある小さな町で過ごしていました。

伯耆富士とか大山(だいせん)と呼ばれる
大きな山があり
そのふもとの海沿いの町で

町全体がゆるやかに傾斜している感じがあって
各家々の周りには水路があり
大山から流れ下る雪解け水?が
いつも豊かに流れていて

今行ってもその点は
あまり変わりませんが

そして
近所にお寺があり
私が5-6歳?くらいの時に、母親に寺に連れて行ってもらいました。

記憶はあまり定かではないのですが
法事でも何でもない時で
暗くて静かな堂内に入ると
大きな仏像や木魚があり

そして「地獄絵」というものもありました。

生きているときに悪いことをすると
死んだら地獄に落ちる、ということで

釜茹での絵とか
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるとか

当時から恐怖映画とかありましたので
子供の私は、ふーん、そういう絵なんだ
ずいぶん古い絵だな、くらいに思う気持ちと

「もしかしたら本当の事なのかな」
と思う気持ちもちょっとあり、
夜布団の中で思い出したり

大人になって思うのは
因果応報というのは
やっぱりあるのかなと

以前、診療後に
とある有名作家さんに
「心がけがいい人は運がいいんですかね」と聞くと

「うーん(思案)」
「…そうでもないわね。」とのこと
いろいろな人生を見てきた人の言葉は
含蓄があります

悪いことをするとバチが当たる、とはいいますが

何をもって「悪いこと」とするのか、
ということもありますが

バチが当たっても
自分の行為との因果関係を何ら考えない人や
周りのせいだ、と考える人も
いると思うので

「あ、バチがあたったんだな」と思えることは
その人の良心だと思うのです。


 
2024年08月13日 13:42

鷹揚(開業物語その3)

以前HPで書きましたが
私は子供のころから
「歯医者を痛くなくできないか」などと
考えていたので
歯学部にいる時から
その現状にえらく違和感を
感じていました。

当時それは
やむを得ないことだったのかも
しれません。

22年前にこの広尾の医院に
就職しましたが

正直言えば
ここでもそのような点では
少々思うところがありました。

時代だったのだと思います。

でも当時の院長先生は
ものすごく勉強している人で
根管治療も、修復物をぴったり合わせることも
入れ歯も上手で
すごい技術を持つ人でした。

よほどいろんなところで
修練を積んできたんだろうなと
思わせる感じ

私もかなり学んできたつもりでいましたが
私の場合は頭でっかちというか
現実の臨床に適用する
実践の部分がかなり甘かった

おかげさまで
ずいぶん勉強になりました。

臨床だけでなく
フィロソフィーの部分でも
いろいろ教えてもらいました。

私は突然、この広尾の地に来て

大した社会経験もなく
これといった趣味もなく
経営者として理想と現実のはざまで
苦労した経験もなかった自分は

この地で暮らす
成功者たちやそのご家族
生活レベルの違う人たちと

正直何を話したら良いのか
わからず

その点でとても苦労しました。

今となっては信じられませんが
当時はどんな顔をして
患者様たちと接すればいいか
わからなくなってしまった

そんな悩みを打ち明けると
院長先生は言いました。

「医者なんだから、
鷹揚(おうよう)としていればいい」と

鷹揚か…

求められているのは
おおらかで親しみやすくて
親切で腕のいい歯医者

コミュニケーションが
すっと楽になった瞬間でした。

その後、
合気道が私のコミュニケーションを
さらに変えてゆくのですが
その話もいつか書きたいと思います。


つづきます。







 
2024年06月28日 08:18

喧々諤々(けんけんがくがく)(開業物語その2)

前回の続きです

当時のM院長と私はとある会合に参加しました。
その後、打ち上げの会があるとのこと。

東京都の歯科の保険医協会という巨大組織があって
そのカリスマ的会長のN先生もくるとのこと

人見知りの気のある私は知らない人たちとの飲み会に
めんどくさいなあ、という気持ちがあって

帰ろうかなあ、なんて考えていたのですが
院長から「先生、こういうのは出ておくものだよ」
とヒソッと言われ、出ることにしました。

そのうちにお酒も入り
だんだんN会長のもとに若い歯科医たちが集まり始め
歯科について、保険制度についてなど
大激論になり

N会長が
「僕はこうやって、若い人たちと
喧々諤々、口角泡を飛ばして議論するのが大好きだ!!!」
と言っていて(確かに大物)
大いに盛り上がりました。

後日、市川先生という方が
高齢のため、広尾にあるクリニックを継いでくれる人を
探しているという話があり

結局、M院長とN会長に推薦していただいて、
イチカワ歯科という医院の広尾分院長として
引継ぎを前提として
勤務することになったのでした。


次に続きます

 
2024年05月14日 13:26

25年前(開業物語その1)

もう25年くらいになりますか
ここ広尾で開業する前は自由が丘にある
歯科医院に勤務していました。

その院長は全国的にも有名な開業医で
驚くほどのバイタリティーで
話は論理的、科学的でありながらも
情にすこぶる厚く

いつでも
歯科が世の中にできることや
治療のこと、患者さんのこと、スタッフのことを
いつも考えていて

新製品の開発などでも
ブルドーザーのように周りを動かす
パワーがあって

歯科はすばらしい、が口癖で

私は憧れていましたが
憧れて真似したからといって
「この人には成れないな」
と思った人でもありました。

数年前に亡くなってしまいましたが
亡くなる直前には
スタッフに一人一人病室に来てもらって
全員にお礼を言ってから
亡くなったらしい

どこまで完璧なんだと
思いますが

ちなみにその医院は
初診患者さんが全国から来ていて

私が勤務していた25年前のある日
「この医院で診てほしい」と
とある初診患者さんが来ました。

初診の方なので
他の医院で以前に治療を受けていて

私はその口の中を見て驚きました。

ゴールドのインレー修復という治療だったのですが
これまたこんな精緻な治療があるのか!
と思うような、上手さで

どこでこれは治療したのですか、
と尋ねると

広尾のイチカワ先生という方らしい

(イチカワ先生?うーむ知らんなあ)

でも当時生意気だった私はその患者さんに言いました。
「あなたはその医院に戻るべきだ」と
ほんと生意気でしたが

私はその時、将来そのイチカワ歯科を自分が引き継いで
広尾で開業するなどと
思ってもいなかったのでした。

次に続きます



 
2024年05月14日 10:46

俳句

俳句趣味というのも
認知症やフレイルなどの予防にいいかもしれません。

句を作るために
旅行に行ったり

季語とか勉強する必要もありますし

前回は私の母の俳句を紹介したので
今回は父のものを

「天を指す 指から乾く 甘茶仏」

某省の監察官をやっていた父らしい句です。

ちなみにこの句は
とある俳句講習会で発表したら
関係者のまた関係者のさらに別のグループの
知らない人に新聞投稿されてしまって
その人が賞をとってしまったという、

この世界も油断ならん?ようです


 
2024年03月03日 07:52

明るく楽しく

老人保健施設、いわゆる老健は
介護保険の給付対象施設であり
自宅で生活が困難になった高齢者が
リハビリを行いながら生活し
自宅復帰を目指す施設です。

私の母も老健に入っていました。
そこの施設はグループの理事長が
私の父方の親戚で
とても良くしてもらったのですが、

大きな施設は
今はコロナで
面会が大変

できても予約制、パーテーション越し、
15分までという

外泊もできない、ということで
どうしたものかと思っていたら

申し込んでいたグループホームが
空きが出たとのことで
引っ越しました

ちなみにグループホームは
介護保険の給付対象施設で
認知症患者さんたちが
協力しながら生活します

母の入ったグループホームは

家の近所ですが
周りは田んぼや梨畑に囲まれていて
どこか両親の故郷の鳥取に似ているような

そこは面会も外泊も自由で

車いすで外の散歩もできる

引っ越しの日は
私の父と私の子と私で母を連れて引っ越ししました。
部屋で子供が母の痛む足を揉んであげていて

その後、介護士さんがきて母はダイニングにおやつに行き
「これ美味しいわ、とってもおいしい」
という母の元気な声が聞こえ
ちょっと安心して私たちは家に帰りましたが
その声が最後に聞いた母の声になりました

次の日曜日は
母を車いすに乗せて
皆で散歩しよう、などと思っていたら
今度は父が腰椎の圧迫骨折でどうにも動けなくなり

東京消防庁のHPでは
65歳以上で急な腰痛で動けないときは
救急車を呼んでとありますので

救急車で、入院となり
バタバタして日曜日が終わってしまい

グループホームから電話があったのは
次の月曜日の早朝でした

救急隊からで
母が心肺停止している
延命処置をしますか?とのこと

90歳、長く認知症と足の神経痛を患いながらも
直前まで元気で
寝ている間に
スッと亡くなったのです

「しなくていいです」と伝えました。
救急隊の方は「わかりました」とのこと
一応決まりなので、心臓マッサージはしますとの事でした

そう答えた理由はもう一つありました

母のその母も認知症でした。
鳥取で、さらに今のような介護サービスもなく
周りの人はすごく大変で

その様子を見ていた母は
私がボケてしまったら死なせてくれと、
よく言っていました。

そして6年前のことでした。

自宅で母の認知症が進んで
水道の蛇口も止められない
時々おかしなことをしてしまうようになり

困った父が私に「どうする」と
いろいろ相談していて

その数時間後
母は心筋梗塞で倒れました

いろいろあっても
まだ母は元気でしたし
短期記憶はなくても
瞬時の判断力とか言うことはシャープで

私は迷うことなく
心臓マッサージをして
救急隊に引き継ぎました

その数日後、生還した母に
病室でそのことを話すと
「あら、生き残っちゃったのね」と
言っていたのでした。

あれから何度も正月を家族で過ごしました。
ある正月には母は俳句を一句作りました。

「ふるさとの 海鳴り聞こゆ 初電話」

いろいろありましたが、
明るく楽しく、
よく生きてくれたと
思います。






 

2024年03月03日 05:42

面会

今日は老人保健施設に入った認知症の母の面会に行きました

自宅では移動やトイレ、痛みの管理など、介護があまりに大変になってしまい
とうとう施設にお願いする形になったのです

はじめ本人は家に居たがったので
実は施設に入ってもらったことに
私は良心の呵責のようなものを
感じ続けていました

今頃どうしてるんだろう、
帰りたがってないか、とか

面会は
コロナの流行もあるので
ビニール越しの15分間だけでした

会う前はどんな状態か心配していたのですが

施設の人が
「施設の暮らしはどうですか」
と聞くと
「そんなことひと言じゃ言えない」と言い
思わす施設の人も笑っていて

「いいこともあれば、悪いこともある、ですか?」
と聞くと

「悪いこと、はない」
「何でもしてもらえるし、楽」とのこと

睡眠もよくとれているらしく

いろいろとまあ
なかなか楽しい面会時間でした

次に来るときは俳句の本を持ってきてほしい
とのこと。

正直、元気そうで
驚きました。

施設の人には
良くしてもらっているそうです。

見た目はおばあさんですが
昔の母のように
明るさと、施設の人など周りの人への気配りと
話にユーモアがちゃんとあって

自分が言うのもなんですが
やっぱりあの人は
すごい人です

看護師さん曰く
最近は足など痛がらず
鎮痛剤の使用量が入所時の半分以下になっていて
もっと減らせそうだとのこと

面会時間が終わり
家に帰りたがるということもなく
機嫌よく、またねと終了し


我が家にいたころのあの日々は

夜中に二人がかりで
何度も
やっとこさトイレに連れて行ったり
朝まで神経痛で痛がって眠れなかったあの日々は

いったい何だったのか


施設にもよるのかもしれませんが
プロに任せるのが、結局良かったんだなと
思いました。








 
2023年12月14日 18:16

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